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正しいを選ぶか、愛を選ぶか





最近ある本を読んでいて、気付かされたことがあった。それは私が小さかった頃や思春期の頃、そして大人になってからのたくさんの場面で、


「あの人の事なんてもうどうでもいい。」


とか、

「あの事はもういい、終わったし、考えたくもないし。」

とか、

「気にしてなんかない、大した事じゃないし。」


と言ってきた中で、そのどれだけが、私が自分についた嘘だったかを。



本当は、とっても気にしてた。愛して欲しかった。私の愛が大事にされなかったとしても、それでも私は愛したかったし、愛していた。


相手にすら知られたくない位の、自分でも認めたくない位の、大きな大きな愛情。そして自分を愛してほしい、という気持ち。


でも相手はそれを受け取らなくて、自分がまるで損をしたみたいな、バカみたいな気持ちになって、そしてもうこれ以上傷付きたくなくて、悲しくて。

どうしたらいいか分からず、ただ怒った。

「もういい。」

「なんてひどい人だ、こんな人の事なんてどうでもいい!」って。


そうやって、本当はそこにある大き過ぎる愛情にフタをして、修正テープの上から書き直すみたいに、

「この人の事は好きじゃない!」って、


時にはどんなにショックだったとしても、

「大したことじゃない。」


ってセリフを書いた。



親や恋人、知らない人に対しての親切心ですら、何度も何度もそうやって気持ちを書き直し続けるうちに、愛につながれなくなった時も、たくさんある。

人に対して何の同情も愛情も湧いてこなくて、自分はとても冷血な人間なんじゃないかって、自分が恐ろしくなったことも何度もある。



自分が与えても相手から何も返ってこなかったら、与えた自分は損なのか?

なんだかカッコ悪いのか?

人のことより自分の心配をする方が正しいのか?

相手から期待した愛情が返ってこなかったら、愛していた気持ちは、無駄に終わるのか?


なんだかそんな気がしてたけど、というよりも無意識のうちに大人たちにそう刷り込まれてきたけど、本当はそうじゃないんだよね。



私たちの本質は、愛し、与え、相手を優しく思いやること。

それが相手に理解されるかどうか、愛が返ってくる見込みがあるかないかで、自分の出方を見極めるのは、本当はとても不自然のはずだ。


だからといって自分を操作しようとする相手と一緒にいるって意味じゃなくてね、もちろん人生で誰と関わるかは自分で選択するのだけど。



頭で考えると躊躇してしまう事はあるけど、自分のハートが与えようとするのなら、それを私の頭で止めるのはやめよう。



愛することが当たり前のように、ただ愛したこと。

与えようと思った、その純粋さ。

心から出た、自分の優しさ。


それらは報われないぶざまな姿ではなく、自分の愛すべきエッセンス(本質)だったんだって気付いたら、なんだか自分を更に愛おしく感じたのでした。


あなたが愛するに値しないと判断した、でも本当は愛を伝えたかった相手は誰ですか?






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